あの頃の夢を、叶えてあげる

エッセイ書きたかったんだった。ずっと忘れてた。

大切な友達とこじれてしまった

 私の友人関係は「狭く深く」タイプだ。社交的な性格ではあるため、知り合いを増やすことはどちらかと言えば得意だと思うのだが、本当に打ち解けて自分をさらけ出し、長く交友関係が続く間柄は非常に少ないことに、ようやく最近自分でも気がついた。

 昔は「友達が多い=いいこと」という思い込みに囚われて憧れを持っていたため、認めようとしていなかったのだと思う。しかし、自分自身がどういう状態が心地いいのか、建前をぶっちぎった本音の理解が急速に深まっていて、今はそういう自分の交友関係の築き方も悪くないと思っている。

 

 実際のところ、今も付き合いが続いている数は限られた友人たちのことを、私は本当に信頼しているし、それぞれ人として尊敬している。

 べったり一緒に過ごしたり、頻繁にやりとりしたり、わいわいと群れて集ったりするわけではない。人によってかなり違うが、時々連絡を取ったり会ったりするぐらいである。だが、不思議なことに、人生の重要な節目にはふと繋がっていたりする。支えたり支えられたり、大事なひとときを共有したりするのである。

 そういう積み重ねの結果、相手をもっと好きになる。信頼感も増す。人生のステージや環境が互いに変化すると、以前と同じように付き合い続けるのは難しくなることもあるが、それでもつながっている感覚は強いので不安に思わない。数は少ないが、そういった友人ばかりである。素直に嬉しい。けっこう幸せだ。

 

 ただ… 間違いなく、そういった友人の1人なのだが… 私の中で今、不協和音が響いている女友達がいる。相手がどう思っているかはわからないのだが。

 

 一言で言ってしまえば、先ほども書いたような環境の変化。それぞれが違う人生の道筋へ歩を進め、物理的な距離が遠くなるのみならず、価値観の相違によるすれ違いも出てきたということにすぎない。

 しかし、それは彼女だけのことではなく、むしろほとんど全ての女友達がそうなのである。結婚して子どもが生まれ、家族があっての生活をしている友人たち。一方で私は以前と変わらず独身の一人暮らしであり、そういった経験を一切していない。

 

 彼女とちょっとした事件があったのは、もう2〜3年前になる。なんだか、書いていてしんどくなってきた。だがいい機会なので、頑張って書いてみることにする。

 

 彼女が赤ちゃんを産んで数ヶ月経ったころに、共通の友人とともに、赤ちゃんに会いに自宅へお邪魔した。当時私は簡単に行き来ができないぐらいの遠方に住んでいたので、これを逃すと今度はいつ会えるかわからないという機会だった。

 そんなタイミングで、私は風邪をひいてしまった。咳や鼻水が出ていたので、終始マスクをし、しっかり手を洗わせてもらって、できる限りの配慮はしたものの、そういった貴重な機会という事情もあってキャンセルするという発想がなかった。一緒に行った友人も出産経験がなく、特に気にしていなかった。

 彼女は特に何か言ったわけではなく、普段と変わらず接してくれてはいるが、何か空気がおかしい。私は赤ちゃんに近寄ることを遠慮してなるべく離れた場所に座って眺めていたのだが、もう1人の友人はガンガン赤ちゃんをあやしていて、彼女はその子の赤ちゃんの扱いを絶賛する。別に何もおかしいことではないのだが、必要以上の絶賛というか何かが不自然だった。たまに私が様子を見ようと少し覗きこもうとしても、彼女になんだか背中を向けられて続けている感じがして、よくわからない圧迫感に私は戸惑い、何も言えず非常に苦しい時間を過ごした。

 そして帰り際、もう1人の友人が「ちょっとだけ、抱っこしてみる?」と無邪気に私に尋ねたのだ。「そうだね、しっかりマスクして…」と私が赤ちゃんの方へ近寄ろうとすると、彼女はぴしゃりと「ちょっと、ごめん」と拒絶した。今までに聞いたことのない、驚くほどキツイ口調で。

 その時になってようやく、私は今まで何が起きていたのかはっきりと理解したのだった。わかっているつもりだった、配慮しているつもりだった。でも、そんな次元の話ではなかった。彼女は本当に嫌だったのだ。私は何もわかっちゃいなかった。

 

 帰り道、私は「今日は来るべきじゃなかったな…」と一緒に来た友人に漏らした。彼女も抱っこをすすめたことを無神経だったと後悔していたが、「こういう考え方は人によっても違うし…わかんないから難しいね」と2人でため息をついた。

 実際それまでにも友達の赤ちゃんに会いに行った機会は何回もあったが、みんな割とおおらかで、このような神経質な空気を醸し出した人はいなかったので、このようなことになったのだ。ちなみに後日、こちらの友人も妊娠・出産をした。そしてどうやら同様のシチュエーションに出くわしたらしく「それなら事前に言ってほしかったし、来ないでほしかった」とSNSでつぶやいていて私は愕然とした。母親になる前と後とで、完全に変化している。そういうものなのだ。私が知らないだけで。経験していないだけで。母親はそうして本能的に子どもを守るのだと知った。

 後日談はさておき、その当時も「これは完全に配慮が足りなかった。私が悪い」と、強く強く思った。彼女を友人として失うことが怖かった。本当に申し訳なかった、とメッセージで彼女にあやまったのだった。

 

 その罪の意識を、今も引きずっている。その後も彼女と会う機会やメッセージのやりとりをする機会はあって、特に態度の変化や気にしている素振りは感じない(実際のところどうなのかはわからないが)。私は心からあやまって、知らなかったことを知って次からは気をつけようと思って、それを許すか許さないかは彼女次第でそれを受け入れるしかないのだが、少なくともこれ以上今の私にできることはない。

 

 

 …本当に、それだけなのか?? 

 もっと他にも、私が思っていることはないのか。

 

 

 あのときの空気。

 

 だったら、ちゃんと言ってほしかった。

 あんなふうに険悪な空気を出すんじゃなくて。

「そんな体調で来ないでほしかった」

「もう今日は帰ってもらっていいかな」って。

 言いづらかったんだと思う、私のこと思って、せっかくわざわざ来てくれたのにって。

 でも、あんな空気出されるほうが、よっぽどしんどい。

 

 私があやまるメッセージを送った時に、彼女はこう返信してきた。

「えへへ。相手が私だったから言えたのかも。」

 それに私はさらに返信した。

「人に自分の意志をあまり言えなかったあなたが、こうして言えるようになったことに感動した。守るものがあると人は強くなるんだね」

 

 この言葉に、嘘はない。私は本当にそう思ったし、それを彼女と共有できて、私たちの関係がさらに深まった要素もあると思う。

 だけど。

 私は私なりに、辛かったし傷ついたのだ。あの時、あの後、ずっと。私が悪いのは間違いないけど、彼女のほうにも、他の伝え方ややり方もあったはずだ。あやまってほしいなんて言える立場ではないけど…そこに対する反省や私に対する配慮が、一切ない。友達へのほんの少しの思いやりも、フォローもない。

 

 多分私は、そこに納得していない。

 だからずっと、もう何年も引きずっている。

 正直、今、それまでと同じように積極的に彼女と関わることができない。

 

 

 だが、そういう私自身も自分の本音を言っていないという現実。お互い様だ。

 時間が解決する面もあるだろう。一瞬で壊れることもあるのが友情。だがそれでも、私たちにはそれだけではない様々な積み重ねがあると思っている。時が経てば、きっと私の中の思いも変わっていくだろう。

 

 

 …当初はこれで結末のつもりだったのだが、書いている途中で気付いてしまった。

 

 私の中でわだかまりがあるということは、彼女もきっとまだ心のどこかで私を許してはいないであろうことに。最初からずっとそうなのだ。お互い同じ、どっちも。

 それなら尚更、こわくて自分の本音なんて言い出せない。友達に対して優しい子であったが、世界一可愛い我が子の安全を脅かした相手となれば、敵に見えてしまうものなのだな。

 

 …

 

 彼女が、我が子を本当に愛しんでいることは、よく知っている。今の彼女の幸せを、大切なものを、私は尊重したい。

 

 今の私にできることは、このすべての事実をただ受け止めることだ。不安に耐える。そして何もしない。

 たぶん今は、どちらも心の余裕がない。時が経った後にどうするかは、そのときの彼女や私の判断に委ねればいい。そこは信頼していい。

 

 腹を割って話す機会をいつか作らねばと思っていたのだが、違うな。

 ああ、思いがけず結果的に腹をくくることができてスッキリした。よかった。書いてみるものである。

面白くないはずのトランプ遊びの行方


 彼女は結局、トランプ遊びを選択した。

 ここに2泊滞在した私が帰路につくまでの残り1時間を、兄と妹それぞれがやりたいことを選んで30分ずつ遊ぶことにした。小学2年生の兄はバスケをすると即決し、妹に先を譲ったのだった。

 たった2日前に初めて会ったとは思えない、何年も前から互いに知っているようなこなれた空気感で、私たち3人は机を囲んだ。

 

 

 彼女はいつものように元気いっぱいでその場を仕切りだし、スーパー柔らかい頭ですぐにオリジナルのゲームを提案した。
 裏面のまま絵柄が見えないように、彼女が1枚ずつ札を送っていく。私が好きなタイミングでストップをかけて、その札が”Q(数字の12)”だったら当たりだと彼女は言った。非常にシンプルな当てっこである。

 「えーーー、そんな簡単に”Q”が出るわけないじゃん!」

と、私は大きくリアクションをする。確率を考えたら当然である。だがそれほど深く考えず、まあ面白くても面白くなくても別にいいかとあっさりその提案に乗り、ゲームは始まった。

 

 特別なことは何もなく、いつごろどのようにストップをかけたのかも全く覚えていない。1ミリも当たるなんて期待していなかった。出た札は…まさかのQueenだった。

 「え… え⁈ え⁈ 」

 私は心底驚き、激しく動揺した。あまりに予想外すぎて喜びが湧いてくるどころではなく、ただただオロオロしていた。2人のリアクションを見る余裕もなかったが、おそらく驚いていたと思う。

 「うそでしょ…すごくない…⁇」

 狼狽しながらも自分がミラクルを起こした実感を持ち始めたが、まあ言うても、これはまぐれであろう。そう思いながら、ある意味完全に無心だった1回目よりもさらに下がった期待値で、我々はもう1度同じようにトライした。

 今度は”Q”ではなかったが、数字の”9”が出た。微妙に空気が止まり、私のつぶやきが漏れる。

 「え、これ… "Q”ではないけどさ、なんか…」

 「これ("9”)もOKにしよう!」

と彼女がカラッと明るく言う。

 

 この後も同じことを何度も繰り返し、私は早いタイミングで止めてみたり、相当長く粘ってみたりと、いろいろ緩急をつけながらやってみた。100%すべてではないが、ほとんどと言っても過言ではないぐらいに多くの回で、"Q"か”9"が出た。

 みんな動揺と、うっすらとした興奮でざわついていた。
 これは一体、何?エスパー?

 当てる私がすごいのか、それとも彼女が何かを操っていてすごいのか、それとも2人ともすごいのか。
 はたまた、この2人の組み合わせだから、ミラクルが起きているのか。

 

 そんなことを私が口走っていたら、側ですべてを一緒に見ていた兄が言った。

 「この子(妹)、昔からそういうところあるんだよね」

 

 

 終了時間が間近になり、いよいよラストの1回である。

 出たのは… やっぱりQueen

 

 

 「絶対面白くないって思ったのに、すごく面白かったね」

と、兄が言った。まったくその通りである。

 今後彼女とは長い付き合いになりそうだ、と私は確信を持って思った。

 

 

 

 

意識は輝いている(物理的に)


  以前、女友達に言われて印象に残っている言葉がある。
「かめちゃんを呼んで、振り向くときの顔がいい。何度でも呼びたくなる」

 なんのこっちゃと思っていたが、彼女の言っていたことが最近ちょっとわかったような気がしている。これは、人間の意識が可視化された現象なんじゃないかと。

 
 彼女が指摘したのと同じ現象が起きていることに気づいたのは、ステージ上で話す自分を動画で見た時だ。その場の感想を求められた私は、始めはあらかじめ準備していた内容を、順調にしゃべっていた。その時は何事も起きていない、普通だった。

 しかし途中で突然、外から横槍が入ったわけでもないのに、自分の中の何かがはじけ飛んだ。用意していた優等生的な回答ではない、特段言うつもりもなかった、内容の薄っぺらいほんとにただの感想が勝手に飛び出した。もはや内容を覚えてもいないが、たぶん「すっごく楽しかったですっっ!」みたいなノリだったと思う。ちなみに、言っている最中は本人も自分が何を言っているかよくわからないブッ飛んだ状態になってしまっている。

 そのとき、話している私から一瞬キラッと、フラッシュのようなまたたきが見えたような気がしたのだ。びっくりした。なんだこれは。しかし悪い印象ではなく、自分のことながら率直なところ、それは明らかに”輝き”だった。美しかった。実際にその場にいたオーディエンスから後に、
「あのぶっ飛んだような瞬間が一番よかった」
と言われたのを、動画を確認しながら思い出した。私だけではない、他人にも見えていたことは間違いない。 


 これ以外にも、同じような現象が時々私には起こっているようだった。さらに子どものころのビデオを見たりすると、芝生の坂道をワーキャー言いながら大はしゃぎで何度も転がり落ちている時などに、同じような輝きを放ちまくっていた。

 

 

 この輝き、きらめきは一体何なのかを考えたときに、「純粋な”意識”が外に向けて開かれた状態」なのではないかと思い至った。

 この輝きが表れ出るには明らかに共通した条件がある。まっさらであること。普段人間は頭で多くのことを考えながら、緊張状態のもとで生きている。そういった硬さのようなものや、よこしまな考えだったり、余分なものが一切ない状態。思いがけずスポンと入った、エアポケットのような瞬間だ。
 たとえば、話しかけられて「うん?」と返事をするその一瞬の反応は、ただただ無心だ。そしてその無心なままの意識が相手へと一気に放出され、その流れが非常に感じ取りやすい。ステージ上で話していた時は、それまで理性的に抑えていた自分自身が、何かの拍子に反動で一気に溢れ出したのだろう。無意識のようでもあるが、必ずしもすべてが無意識というわけではない。むしろ無意識と有意識が一致した状態と言えるかもしれない。


 ここまで自分の話ばかりしてしまったが、このように私の場合は瞬間的な「またたき型」である。だが、おそらくその光り方、輝きの種類などは人によって異なる。

 たとえば芸能人、特にアイドルと呼ばれる方々は、(照明などの効果ももちろんあるはずだが)常に目がうるうるしてキラキラ輝いていたりする。これも同じような現象なのではないか。彼らは一瞬だけではなく、それを放ち続けることができる人たちだ。潜在的に持っている存在の華やかさ、そして自分そのものをさらけ出す強さや覚悟があってのことだと思う。よく言われる「オーラを出し入れできる」という人は、それをコントロールすることもできるのだろう。

 

 

 人の意識。それは”魂”と言い換えると、ちょっと大袈裟だろうか。
 必ずしもきれいなもの、ポジティブなものだけではないだろう。だがそれも含めての、まっさらの状態の意識。誰もが持っている。それが輝きを放つものなのかと思うと…なかなか、人って素敵だ。

 

 

ミスジにこれほど心惹かれるのは


 初めて出会ったのは、家族と一緒に行った焼肉店だった。

 めちゃくちゃおいしく味わっていても、何度聞いても肉の部位の名前って覚えられない。ワインや日本酒の名前と一緒。それが、この名前だけはたった一度で深く刻み込まれたのだ。

 

ミスジ

 

 薄切りの霜降り肉をひと口食べてびっくり。なんという繊細な味わい!キメの細かそうな油を感じる。うまみがものすごいんだけど、全然しつこくなくて、もう最高に上品で深い・・・

 希少部位であるミスジは、他の焼肉店でもなかなか目にすることはなかった。この店でもいつも置いているわけではなく、その後もちょくちょく通い、何回かは幸運にも再び巡り合うことができた。しかし、この界隈から引っ越してしまったのもあり、ここ何年かはすっかりミスジから遠ざかってしまっていたのだった。

 

 

 それが最近、予期せず再会を果たした。

 母と、別のお気に入りの焼肉店に行った時。「霜降り五点セット」というふうに一括りにされていて全く気づかなかったのだが、皿に載せられた名前札を見て狂喜乱舞。まさかの「ミスジ」である。

 数年ぶりに眺めて、改めて思う。もう見た目から美しい・・・まるで綺麗な葉脈のようである。惚れ惚れとした後、期待を一寸も裏切らない味わいを深く堪能し、ちゃっかりミスジだけ追加オーダーまでしたのだった。

 

 なぜこれほどまで「ミスジ」に惹かれるのだろう。おいしいものは他にもあれど。

 今更なようだが、そもそも「ミスジ」とは牛のどの部位なのか。おいしければ何でも良くて、そういった知識的なことにほとんど関心がないので、こんなに好きなのに全然知らない。

 そこで調べてみたところ、どうやら肩甲骨の内側の肉らしい。

ミスジは焼肉を好む方の中でファンも多く、1頭の牛からわずか3kg程しか取れない希少部位。(出典:

https://store.hida-yamayuushi.com/blog/meat-books/about-misuji.html 


ですよね。ファンになるよね!

 

肉の中に大きな3枚の筋が入っていることから「ミスジ」と呼ばれるようになりました。(中略)断面は外国産だと牛タン、和牛は木の葉の模様に見えるのが特徴です。(出典:https://store.hida-yamayuushi.com/blog/meat-books/about-misuji.html) 

 
やはり木の葉!葉脈!ですよね。

 

カルビ(バラ)のようなストレートなものとは異なり、より優しさを兼ね備えているので、脂の量とは裏腹に口の中でもたつかず、それでいて濃厚な味わい、そんな魅力がミスジにはあります。(出典:https://store.hida-yamayuushi.com/blog/meat-books/about-misuji.html

 
ああ、もう思ってたことがドンピシャで書いてある!

 

 

 ただ、こんなに知ったような口を叩いていても、よく考えると私はミスジの本当に限られた側面しか知らないことに思い至る。

 

 まず、焼肉の薄切り肉でしか食べたことがない。ステーキなどもあるらしい。実際、見たことはある・・・ファミレスの外観に「ミスジステーキ」というのぼりが立っていたのを。当然非常に気になり、行ってみようと意気込んでいたのだが、結局行かなかいうちにキャンペーンは終わってしまった。ファミレスに行く習慣がなくて行きづらかったのも嘘ではないが、おそらく本質ではない。

 かなり値段も安い様子で、それにテンションが上がったのも事実だが、もし味が微妙で大好きなミスジのイメージが損なわれたら・・・と思うと、ドキドキして怖くなってしまい、行く勇気がなかった、というのが今思うと正しい感覚である。

 

 ミスジを食べたシチュエーションが、すべて家族と一緒というのもひとつの事実だ。焼肉は家族ぐらいとしか行かないので当然ではあるが、そもそもリラックスしていて、食べることに集中できるシチュエーションでないと、おいしさを存分に感じるのは難しい。大事な打ち合わせをしていたり、おしゃべりに全神経を傾けていたりしたら、たとえその場で瞬時に「おいしい!」と感激しても、すぐに意識は逸れ、その余韻は非常に残りづらくなる。後から「おいしかったな」と思い出すことも、まずない。

 ミスジを食べた時に私はリラックスして食事を楽しんでいたという証明になるのだが、結果的に、ミスジが私にとって、家族でおいしい肉を食べるという幸せなイメージにつながっている気もする。しっかり守られて、おいしいものを食べさせてもらう、そんな子どもの頃の原風景的なものへアクセスする・・・そう考えると、ミスジのイメージが壊れるのが怖いというのも頷ける。

 

 

 そんなことを考えていた折、石垣島で超人気焼肉店に行く機会があった。以前家族同然にお世話になった方と再会し、連れて行ってもらったのだ。

 そこで食べた石垣牛のカルビ(うろ覚え)が、ミスジではないのに、ミスジとものすごく近い味わいに思えて非常に驚いた。繊細で、細やかな油を感じ、上品かつ濃厚な旨み・・・

 もちろん、上質なおいしい肉で、実際にそういう似た風味だったのだと思う。だが、私にとってはもはやそれだけの意味にとどまらない。

 

 その時間が、幸せなものだったという証。

 感覚に深く浸透していくような。

 

 

 実は最近、冒頭の焼肉店にほど近いところへ越してきたこともあり、またミスジの焼肉を食べに行こうと思う。どこかで今度はステーキも食べてみたい。石垣牛も、また食べたい。

 欲張りだろうか。

 感謝と、願いを込めて。

 

 

 

同僚あーちゃん


 うちの店で、もうすぐ新しい季節もののコーヒー豆の販売が始まる。しかし、これがあまりおいしくないのである。・・・少なくとも私は個人的に好きじゃない、と思った。

 

 新しい豆が出る前には、決まったある従業員の子がその豆でコーヒーを入れて、シフトに入っている全員にふるまってくれるのが毎度の習慣である。障害のあるスタッフで、若い子なのだがすでに結構長く勤めている。他の従業員のみんなとも仲良しで「あーちゃん(仮)」と呼ばれて親しまれている。

 まだキャリアの浅い私からすれば大先輩で、入社したての頃にトイレがわからずオロオロしていたところを無言で従業員トイレに導いてくれたことが思い出深い。

 そういったこともあって、私は新人時代にわからないことがあった時、近くにあーちゃんがいたら他の先輩と同じようにガンガン質問した。ぶっきらぼうな口調だが知っていることは必ず教えてくれたし、時には休憩時間に自慢のペットの写真を見せてくれたり、いつも無邪気に誠実に接してくれる子なのだった。

 

 話は戻って、コーヒー豆だ。

 もともと好きではあったが、この店で働きだしてからどんどんコーヒーオタク化している私は、最近自分の好みの味がはっきりと分かってきたところだった。

 たしかに今回の新商品は、私好みのタイプではない。だが、こんなふうに好きじゃない、おいしくない、などとここまでハッキリ思うのは珍しいことなのだ。うちで扱う豆は高品質なものに限られているし、どんなタイプの味わいであっても、好みは分かれどその豆なりの良さがあるものだ。その後もくり返し飲むかというリピート率には差が出るが、基本的に好奇心旺盛な私は、そういった個性の違いを経験として楽しむのに。

 

 だから、おかしいなとは思っていた。二回、そうやって彼女に入れてもらって飲んだが、感じた印象は同じだった。

 ベテランの先輩方が「去年のはもうちょっと飲みやすかった」と言っているのを聞いたのもあって、ああ今年のは本当にどぎつくて好みが分かれるのかと思ってそのまま納得していた。私はあまり好きじゃないけど、仕事なのでお客様にオススメはしなくてはいけない。

 

 ところが、である。

 いざ店頭での販売が始まり、お客様にお配りするサンプル豆を私もちょっともらうことができたので、家で自分で入れて飲んでみた。当然ながら全然期待はしていなかったのだが・・・

 あれ??

 意外とおいしいじゃん。お店で飲んだときの印象と違う。この豆のセールスポイントである果実のような個性的な風味が、良さとして自然に感じられる。

 

 どうしてだろうと考えて、思いが至った。

 あーちゃんだ。

 

 週に数日だけのアルバイトの私は全ての事情は把握していないが、このところ彼女は体調がすぐれない日が多いようだった。風邪だったり歯痛だったり、どうも次々と重なったようで、何日か続けてお休みしていたりもした。出勤している日も、いつもより少し元気がなさそうだったりもして。

 それだと思った。

 

 ぼんやりしていて何かミスをしたとか、そういう話ではない。

 使う器具などどのような環境であっても、コーヒーって本当に入れ方で味がかわる。もっと言うと、入れた人のコンディションや心持ちで味が変わる。

 

 以前ドラマで見たのだが(出典はある小説らしい)、コーヒーを濾過、抽出しているところを手でそっと包み込むようにして、ハンドパワー的なかんじで「おいしくな〜れ〜」とやったらおいしくなるらしい。嘘だろと思ってためしにやってみたら、本当に味がものすごく変わって驚いた。

 料理をする時にも、似たようなことを日頃から感じている。体調が悪かったり気持ちがイライラしていたりすると、それが反映されるかのように派手に失敗したりする。

 

 だから自分の手で用意したものがおいしいかどうかは、私にとって自身をの状態を客観的に把握するためのバロメーターだ。特に、私やあーちゃんみたいな野性味の強いタイプにとっては。

 

 饒舌に語ることはないし、騒いだり主張したりすることも決してなかったけど、あの時期本当にきつかったんだなと思った。

 

 知らないわけではなかったけど、そのニュアンスをその場で嗅ぎ取ることができたら、もう少しその場であーちゃんをいたわることができたのになと思った。そして、一緒に働く同僚として、そんな素朴さや素直さを愛おしく感じた。

 

 

 

年の暮れのバスでの出来事


 新幹線を降り、改札を出て、バスが停まっているのを見つけて小走りで駆け込む。年の暮れの里帰りだ。

 車内は空いていて乗客は数人しかいない。幸いなことに滑り込みセーフだったようで、バスはすぐにドアが閉まり、急いで発車し…かけた。1人の初老女性が乗り込むのを受け入れようと、ドアは再び開いた。


 この女性が、とてつもなくのんびりしている。周りを気にする様子は一切なくマイペースに乗り込み、乗車口を上がったところに留まってゴソゴソしている。

 最前の運転席から、運転手が後方の女性へマイク越しに軽く声をかける。
「すいません、遅れとるんですよ」(方言のイントネーション)

 
 しかしこの女性、多少耳が遠いのか、この言葉を聞き取れない。大声で聞き返す。
「はいーー??!!」

 運転手が再び、
「遅れとるんですよ」(方言のイントネーション)

 女性はまだ聞き取れず、
「はあー?なんですか??」(方言のイントネーション)

 
 運転手はイライラした様子は全然見せず、親切に同じ言葉を繰り返す。
「今ねえ、もう遅れとるんですよ」(方言のイントネーション)

 それでも女性は、聞き取れないのか理解できないのか、また大声でのんびりと同じ言葉を繰り返す。
「えー、なんですかーー??」(方言のイントネーション)

 

 乗車口そばの席に座っていた私は、よっぽど女性に「発車遅れてるそうです」と一声かけようかと思ったが、その前に運転手がまた同じことを言う。それでも聞き取れない女性は、じわじわと運転席のほうへ寄っていきながら同じことを大声で聞き返す。

 このやりとりが、さらに数回繰り返される。

 
 もう、いいじゃないか(笑)

 
 このやりとりのせいでさらにバスは遅れているにもかかわらず、運転手さんは粘り強く、一度投げかけたコミュニケーションが伝わるまであきらめない。女性客のほうも律儀に、意図を受け取るまであきらめない。

 その短い言葉の応酬が、東京の雑踏と喧騒の中で戦い抜いた私の年末の身体に、心地よく響く。
 まるでマッサージのように。

 東京だったら、こうはいかない。時間を焦る人々から冷たい視線や厳しい一言を浴びせられるようなシチュエーションだ。ここは田舎ではないが、地方都市。流れる時間の速さが全然違う…

 

 2人の話はなんとか落ち着き、バスは発車する。
 夜の街を走るバスに揺られてそんな実感を噛み締めていると、少し涙が出てくる。

 ちょっと、今年は疲れたなぁ…

 

 女性客は私より先に降車していき、
「すいませんでしたねぇ」(方言のイントネーション)
と、やはりのんびり律儀に運転手に声をかける。

 運転手のほうも、
「いえいえ。急かしてしまってすいませんねぇ」(方言のイントネーション)
と、やはり親切に答える。


 いいなあ。運転手さん、すごくいい方だな。

 

 そんないい気分で、下車する際は心をこめて「ありがとうございました」と言った。過剰に顔がにやけていたのかもしれない。運転手さんは私には親切な言葉をかけてくれることはなく、少し怪訝そうに一瞥しただけだった。

 

 

 

レモンケーキ


 今日はどうにも不調だった。

 考えすぎ人間のキャパをはるかに越えて、いろんな事が器からはみ出してしまっていた。しかもだんだんお腹がにぶく痛みだし、行く予定だった病院も習い事も全部放り出してぐったりとしていた。

 

 

 気づけば外は暗く、

 すっかりお腹がすいた私は無性にパスタが食べたくなって、重い体を引きずって近所のダイニングカフェへと向かった。

 

 客に対しては寡黙なシェフの作る料理もスイーツも美味で本格派、スタッフの女性もナチュラルで感じのよい、世田谷の住宅地らしい居心地のよいカフェである。そうしょっちゅうではないが、頼りにしていてたまに足を運ぶ。

 雨が降り出しており、入り口で黒板を片付けているスタッフの女性に挨拶して、空いている席に座った。

 

 店内はなかなかの賑わいっぷりだった。私は予定どおりパスタと、ついついケーキを注文して一息ついていた。

 

 そんな折、レジで会計中の老夫婦たちの会話が耳に飛び込んでくる。

「…ええ、今週日曜で終わりなんです」

「残念ねえ、賑わってたのにねえ」

 

 

 …!!!

 

 

 店内の空気が一瞬止まり、私だけでない複数の客が一斉にレジのほうを見た気がした。

 そうなんだ…

 どうにも心が、ざわついて仕方なかった。

 

 

 そのうちパスタが運ばれてきて、今日もその美味しさを味わう。

 ただただ、無心に。

 

 

 

 

 その後、ケーキと紅茶が運ばれてくる。

『本日の自家製ケーキ:レモンケーキ』

 

 いつだったか。一度食べてこれに惚れ込んだ私は、「このケーキいつまでありますか」とシェフに熱く尋ねたのであったが、それ以降、再びお目にかかったことは今までなかった。

 嬉しい…

 

 久しぶりの味は前と同じかどうかはよくわからなかったけど、相変わらず美味しかった一方で、そこから感じたことが以前とは少し変わっていて、時の流れを感じた。

 近くて遠い空の下で暮らす人々のこと、ここでの平和な暮らしのこと。貴重な出会いをし、経験を共にした数々の笑顔。無言の「ありがとう」を体現したような星空と、一筋の流星。そして、不透明な私の未来。

 

 お腹いたいのは相変わらずだし、何も変わってはいないのだけれども、いろんなことを、やわらか〜い感覚で見れたような、

 そんな気がした。

 

 

 そして私はゆっくり紅茶を飲みながら少し仕事を片付け、閉店間際で人もまばらになった店を出た。どうにも迷った末、「残念です」とか「寂しいです」とか特別に声をかけることはやめにした。だけど誠意をこめてやわらかい気持ちで「ごちそうさまでした」と伝えた。

 帰ったら、とりあえずお風呂にゆっくり浸かろうと思った。