あの頃の夢を、叶えてあげる

エッセイ書きたかったんだった。ずっと忘れてた。

大切な友達とこじれてしまった

 私の友人関係は「狭く深く」タイプだ。社交的な性格ではあるため、知り合いを増やすことはどちらかと言えば得意だと思うのだが、本当に打ち解けて自分をさらけ出し、長く交友関係が続く間柄は非常に少ないことに、ようやく最近自分でも気がついた。

 昔は「友達が多い=いいこと」という思い込みに囚われて憧れを持っていたため、認めようとしていなかったのだと思う。しかし、自分自身がどういう状態が心地いいのか、建前をぶっちぎった本音の理解が急速に深まっていて、今はそういう自分の交友関係の築き方も悪くないと思っている。

 

 実際のところ、今も付き合いが続いている数は限られた友人たちのことを、私は本当に信頼しているし、それぞれ人として尊敬している。

 べったり一緒に過ごしたり、頻繁にやりとりしたり、わいわいと群れて集ったりするわけではない。人によってかなり違うが、時々連絡を取ったり会ったりするぐらいである。だが、不思議なことに、人生の重要な節目にはふと繋がっていたりする。支えたり支えられたり、大事なひとときを共有したりするのである。

 そういう積み重ねの結果、相手をもっと好きになる。信頼感も増す。人生のステージや環境が互いに変化すると、以前と同じように付き合い続けるのは難しくなることもあるが、それでもつながっている感覚は強いので不安に思わない。数は少ないが、そういった友人ばかりである。素直に嬉しい。けっこう幸せだ。

 

 ただ… 間違いなく、そういった友人の1人なのだが… 私の中で今、不協和音が響いている女友達がいる。相手がどう思っているかはわからないのだが。

 

 一言で言ってしまえば、先ほども書いたような環境の変化。それぞれが違う人生の道筋へ歩を進め、物理的な距離が遠くなるのみならず、価値観の相違によるすれ違いも出てきたということにすぎない。

 しかし、それは彼女だけのことではなく、むしろほとんど全ての女友達がそうなのである。結婚して子どもが生まれ、家族があっての生活をしている友人たち。一方で私は以前と変わらず独身の一人暮らしであり、そういった経験を一切していない。

 

 彼女とちょっとした事件があったのは、もう2〜3年前になる。なんだか、書いていてしんどくなってきた。だがいい機会なので、頑張って書いてみることにする。

 

 彼女が赤ちゃんを産んで数ヶ月経ったころに、共通の友人とともに、赤ちゃんに会いに自宅へお邪魔した。当時私は簡単に行き来ができないぐらいの遠方に住んでいたので、これを逃すと今度はいつ会えるかわからないという機会だった。

 そんなタイミングで、私は風邪をひいてしまった。咳や鼻水が出ていたので、終始マスクをし、しっかり手を洗わせてもらって、できる限りの配慮はしたものの、そういった貴重な機会という事情もあってキャンセルするという発想がなかった。一緒に行った友人も出産経験がなく、特に気にしていなかった。

 彼女は特に何か言ったわけではなく、普段と変わらず接してくれてはいるが、何か空気がおかしい。私は赤ちゃんに近寄ることを遠慮してなるべく離れた場所に座って眺めていたのだが、もう1人の友人はガンガン赤ちゃんをあやしていて、彼女はその子の赤ちゃんの扱いを絶賛する。別に何もおかしいことではないのだが、必要以上の絶賛というか何かが不自然だった。たまに私が様子を見ようと少し覗きこもうとしても、彼女になんだか背中を向けられて続けている感じがして、よくわからない圧迫感に私は戸惑い、何も言えず非常に苦しい時間を過ごした。

 そして帰り際、もう1人の友人が「ちょっとだけ、抱っこしてみる?」と無邪気に私に尋ねたのだ。「そうだね、しっかりマスクして…」と私が赤ちゃんの方へ近寄ろうとすると、彼女はぴしゃりと「ちょっと、ごめん」と拒絶した。今までに聞いたことのない、驚くほどキツイ口調で。

 その時になってようやく、私は今まで何が起きていたのかはっきりと理解したのだった。わかっているつもりだった、配慮しているつもりだった。でも、そんな次元の話ではなかった。彼女は本当に嫌だったのだ。私は何もわかっちゃいなかった。

 

 帰り道、私は「今日は来るべきじゃなかったな…」と一緒に来た友人に漏らした。彼女も抱っこをすすめたことを無神経だったと後悔していたが、「こういう考え方は人によっても違うし…わかんないから難しいね」と2人でため息をついた。

 実際それまでにも友達の赤ちゃんに会いに行った機会は何回もあったが、みんな割とおおらかで、このような神経質な空気を醸し出した人はいなかったので、このようなことになったのだ。ちなみに後日、こちらの友人も妊娠・出産をした。そしてどうやら同様のシチュエーションに出くわしたらしく「それなら事前に言ってほしかったし、来ないでほしかった」とSNSでつぶやいていて私は愕然とした。母親になる前と後とで、完全に変化している。そういうものなのだ。私が知らないだけで。経験していないだけで。母親はそうして本能的に子どもを守るのだと知った。

 後日談はさておき、その当時も「これは完全に配慮が足りなかった。私が悪い」と、強く強く思った。彼女を友人として失うことが怖かった。本当に申し訳なかった、とメッセージで彼女にあやまったのだった。

 

 その罪の意識を、今も引きずっている。その後も彼女と会う機会やメッセージのやりとりをする機会はあって、特に態度の変化や気にしている素振りは感じない(実際のところどうなのかはわからないが)。私は心からあやまって、知らなかったことを知って次からは気をつけようと思って、それを許すか許さないかは彼女次第でそれを受け入れるしかないのだが、少なくともこれ以上今の私にできることはない。

 

 

 …本当に、それだけなのか?? 

 もっと他にも、私が思っていることはないのか。

 

 

 あのときの空気。

 

 だったら、ちゃんと言ってほしかった。

 あんなふうに険悪な空気を出すんじゃなくて。

「そんな体調で来ないでほしかった」

「もう今日は帰ってもらっていいかな」って。

 言いづらかったんだと思う、私のこと思って、せっかくわざわざ来てくれたのにって。

 でも、あんな空気出されるほうが、よっぽどしんどい。

 

 私があやまるメッセージを送った時に、彼女はこう返信してきた。

「えへへ。相手が私だったから言えたのかも。」

 それに私はさらに返信した。

「人に自分の意志をあまり言えなかったあなたが、こうして言えるようになったことに感動した。守るものがあると人は強くなるんだね」

 

 この言葉に、嘘はない。私は本当にそう思ったし、それを彼女と共有できて、私たちの関係がさらに深まった要素もあると思う。

 だけど。

 私は私なりに、辛かったし傷ついたのだ。あの時、あの後、ずっと。私が悪いのは間違いないけど、彼女のほうにも、他の伝え方ややり方もあったはずだ。あやまってほしいなんて言える立場ではないけど…そこに対する反省や私に対する配慮が、一切ない。友達へのほんの少しの思いやりも、フォローもない。

 

 多分私は、そこに納得していない。

 だからずっと、もう何年も引きずっている。

 正直、今、それまでと同じように積極的に彼女と関わることができない。

 

 

 だが、そういう私自身も自分の本音を言っていないという現実。お互い様だ。

 時間が解決する面もあるだろう。一瞬で壊れることもあるのが友情。だがそれでも、私たちにはそれだけではない様々な積み重ねがあると思っている。時が経てば、きっと私の中の思いも変わっていくだろう。

 

 

 …当初はこれで結末のつもりだったのだが、書いている途中で気付いてしまった。

 

 私の中でわだかまりがあるということは、彼女もきっとまだ心のどこかで私を許してはいないであろうことに。最初からずっとそうなのだ。お互い同じ、どっちも。

 それなら尚更、こわくて自分の本音なんて言い出せない。友達に対して優しい子であったが、世界一可愛い我が子の安全を脅かした相手となれば、敵に見えてしまうものなのだな。

 

 …

 

 彼女が、我が子を本当に愛しんでいることは、よく知っている。今の彼女の幸せを、大切なものを、私は尊重したい。

 

 今の私にできることは、このすべての事実をただ受け止めることだ。不安に耐える。そして何もしない。

 たぶん今は、どちらも心の余裕がない。時が経った後にどうするかは、そのときの彼女や私の判断に委ねればいい。そこは信頼していい。

 

 腹を割って話す機会をいつか作らねばと思っていたのだが、違うな。

 ああ、思いがけず結果的に腹をくくることができてスッキリした。よかった。書いてみるものである。